20年にわたり映画・海外ドラマの最先端を取材&執筆している今祥枝(いま・さちえ)さん。ハリウッドの大作からミニシアター系まで、劇場公開・配信を問わず、“気づき”につながる作品を月1回ご紹介します。第35回は、タイムトラベルで何度でも恋に落ちる夫婦の愛を描く『ファーストキス 1ST KISS』です。
仕事帰りの車の運転中に、ひょんなことから15年前の夏の日、夫に出会う直前にタイムトラベルして20代の駈と再会するカンナ。演じる松たか子は、脚本を手がけた坂元裕二とはドラマ『カルテット』『大豆田とわ子と三人の元夫』などに続くタッグとなる。駈役のSixTONESの松村北斗は、連続テレビ小説『カムカムエヴリバディ』ほか俳優としの活躍も目覚ましい。
映画『ファーストキス 1ST KISS』
読者の皆さま、こんにちは。
最新のエンターテインメント作品を紹介しつつ、そこから読み取れる女性に関する問題意識や社会問題に焦点を当て、ゆるりと語っていくこの連載。第35回は、松たか子と松村北斗が夫婦を演じるラブストーリー『ファーストキス 1ST KISS』です。
結婚15年目。気持ちがすれ違った夫婦に訪れた、突然の別れ
出会って恋に落ちた瞬間が、一番幸せだったかもしれない。結婚生活やパートナーとの関係も時間を重ねていくと、そんなふうに感じた経験がある人は多いのではないでしょうか。
長い時間一緒にいれば、お互いの粗が見えてくるのは当たり前のことですよね。生活スタイルの違いといった日々の細かいことは、その都度擦り合わせていきながら各人が折り合いをつけることができれば、もちろんそれに越したことはありません。でも、小さな不満だからこそ、「これぐらいでうるさく言わなくても……」などと互いに気をつかってしまい、どんどん距離ができて取り返しのつかないことになってしまうケースも少なくなさそうです。
終いには、寝室も別、食事も別、会話もほぼないといった、単なるシェアハウス状態になっている夫婦というのも、そこまで珍しくはないでしょう(その状態で幸せという夫婦の形もあると思います)。結婚15年目にして離婚を決意したカンナ(松たか子)と駈(松村北斗)も、憎み合っているというのとはほど遠いけれど、一緒にいる意味を見出せなくなるほど修復が不可能な状態に陥ってしまった夫婦です。
日々の小さなすれ違いが積み重なって、必然的な流れであるかのように離婚届にサインをした二人。駈はその書類を鞄に入れて、いつものように仕事に出かけますが、夫は出先で事故に遭い、帰らぬ人となってしまいます。カンナにとって、玄関先で見た夫の、どこか疲れたような背中が最後の別れの記憶となったのでした。
その後のカンナが、仕事を続けながらも無気力に日々の生活を送っているであろうことは、荒んだ家のようすからもよくわかります。そんなある日、カンナはひょんなことから駈と初めて出会った15年前の夏にタイムトラベルしてしまいます。戸惑いながらも20代の駈を見たカンナは、「やっぱり私はこの人が好きだなあ」という気持ちでいっぱいに。
何度か時間を行き来する中で、過去を変えれば未来も書き換えられることを知ったカンナは、「夫が事故死する未来を変えよう」と奮闘するのでした。
何度もタイムトラベルを繰り返すうちに、過去を変えれば未来も変わると気がついたカンナ。駈が事故死しない未来にするために、過去の出来事を書き出して、一つずつ変えてどうなるかを試していく。
15年前の駈と、彼が師事する古生物学の教授・天馬市郎(リリー・フランキー)、その娘の里津(吉岡里帆)。里津は、父親が可愛がっている大学の研究員・駈に恋心を抱いている。
人生で最も大切なことを、人はなぜ忘れがちなのか
「失ってみて初めてわかるありがたさ」とはよく言われることですが、本作はまさに、そうした夫婦やパートナーの関係性における普遍的なテーマを描いた作品です。あらすじを読んだ方の多くは、なるほどカンナは出会ったときのトキメキを思い出していくんだな、でも未来は変えられないんじゃないのかなと、なんとなく内容を予測するに違いありません。
実際に概ね予想に沿った展開といえるのですが、さすがだなと思うのは、やはり脚本が『カルテット』『花束みたいな恋をした』の坂元裕二、監督が『ラストマイル』の塚原あゆ子という点でしょう。日常の中に埋もれてしまっている宝物のような瞬間を捉えた脚本、そして清涼感とどこか懐かしさのある映像世界は、忘れ難い名シーンの連続です。
過去に戻った40代のカンナは、20代の駈と一緒にロープウェイに乗ってぐっと距離が縮まっていく。何度「初めまして」を繰り返しても、自然と心が惹かれ合っていくようすが甘くも切なくもある。
気持ちがすれ違っているカンナと駈の空気感と、20代の駈と40代のカンナのコミカルでほほえましく、同時に切なさの入り交じった、胸がきゅっとなるような感覚の対比。カンナがタイムトラベル先での恋愛(浮気?)にウキウキしながら、結婚生活の楽しかった日々を思い出して、声にならない悲しみが押し寄せてくる切なさ。
そして、愛する人の未来を救うために、「私たちが出会わない未来」という究極の選択に行き着くカンナの複雑な胸の内を、映画は様々な形で私たちに訴えかけてくるのです。
たとえば二人で並んで腰掛けたリビングのソファの片側に、自然と身を寄せて座るカンナの姿は、台詞はなくとも駈の不在とカンナの喪失感を切実に伝えて、私は忘れることができません。頭では理解していても、忙しい日々の暮らしに埋没しがちなことが、いかにかけがえのないものであるのかを追体験させてくれる。きっと映画館を後にするときには、日常の見え方が少しだけ変わったような気持ちになれると思うのです。
こうした心情の繊細な揺れや機微を、日常の何気ない言動の中ににじませる坂元の脚本の見事さ。その脚本を、映像化する塚原監督の感性の素晴らしさ。そして、松たか子のあっけらかんとしつつも心を揺さぶる巧みな役作りと、やんわりと受け止める松村の朴訥とした誠実な人柄を伝える自然な演技が秀逸です。
15年前の夏の日、有名なかき氷店の行列に並んで、たわいもない会話を交わすカンナと駈。何度も同じシチュエーションを繰り返しながら、それがどれだけ幸せな時間であるかを噛み締める二人の姿に胸が締めつけられる。
相手の幸せを願うとき、相手も自分の幸せを願っている
若かりし頃のカンナと駈。何気ない日常にある幸せな瞬間の数々を、どうしていつの間にか二人は忘れてしまったのだろうか。松たか子のはつらつとした明るさが魅力の演技に対して、やんわりとそのエネルギーを受け止めるような松村北斗のソフトな存在感にも魅了される。
詳細は伏せますが、映画のある時点で駈がどのような状況で事故死したのかが明かされるのですが、窮地に陥った人を助けるためだったのでした。カンナは関係が冷え切っていたとはいえ、愛する妻のことをまったく考えなかったのかと怒り、大切な家族がいるのに自分の命を危険にさらしたことに対して「無責任だ」と言います。やり場のない悲しみのはけ口として言わざるを得ない、カンナの気持ちはわかる気がします。離婚届にサインはしたものの、夫に対する愛、家族であるという思いは変わっていなかったのですよね。
一方で、これは私自身もよく考えることなのですが、もしも、駈が直面した非常事態において、自分が何もしなかった場合、その後の人生において、その後悔が続くことに耐えられるのだろうかとも思ってしまうのですよね。ただし、これが自分の愛する人や家族だったら、なんとしてでも生きていてほしいと願ってしまうでしょう。人間とは、そうした矛盾を多くはらんだ生き物なのだなとも思います。
カンナはタイムトラベルであらためて駈への思いを強くする中で、駈を愛するがゆえに、自分とは関わらない人生を選ぼうとします。自分と出会って結婚しなければ、命を落とすこともない。つまり、冒頭の自分の思いをぶつけていたのとは逆に、自己犠牲的な結論に至ります。自分の幸せよりも、相手の幸せを願うこと。それほどまでに愛せる他者と出会えることは、人生において奇跡に近いのかもしれません。
しかし、翻って駈にとっての幸せは、どこにあるのでしょうか。カンナと出会わない人生は、本当に幸せなのでしょうか?
愛するだけでなく、愛されるだけでもなく、自分が相手の幸せを願うとき、相手も自分の幸せを願っていることを実感できる瞬間にこそ、無上の喜びがある。私たちはいとも簡単に忘れてしまうのですが、夫婦やパートナーシップにおいて、この関係性は一方通行ではないのだと実感できる瞬間がどれだけあるのかが大切なのかもしれません。映画の結末を観て、皆さんはどう思うでしょうか。