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病気の人はただ弱い存在ではない。軽井沢の森の中に「人と人とが補い合う場所」ができるまで

夜間定時制に通うのは、ほとんどがワケありの生徒です。同級生で、私と同じ15歳は3人だけ。あとは全員が年上で、未婚の母や暴走族、戦争で高校に行けなかった70代など、見た目も年齢も境遇も圧倒的に違う人たちがいる空間でした。

私はそれまで、自分は周りの人たちと決定的に違うと感じていました。「どうせみんな家族がいて、一緒に夕食を食べている。私みたいに父親が死ぬ経験なんかしていないし、人が死ぬ怖さなんて知らないだろう」と。でも、そもそもみんな違うじゃん!自分がすごく小さな世界にいて、視野が狭かったのだと気づきました。

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性や生について大事なことを包み隠さず話せる雰囲気がある

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Akiko Kobayashi / OTEMOTO

定時制高校では、みんないろいろなことに傷つき、必死で生きていました。結局、同級生で卒業できたのは私ともう1人だけでしたが、私は友人たちを支えることができたし、友人たちに支えられたことも数えきれないくらいあります。

人間はお互いにできることを補い合うから、社会は成り立つのではないでしょうか。それをケアというのなら、日常の中で当たり前のように人は人をケアし、ケアされています。

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写真提供:ほっちのロッヂ

病気になって死を迎えようとしている人も、ただ弱くて庇護されるだけの存在ではありません。そういう意味で、私は父の最期とちゃんと向き合うことができたのだろうか。人生を終えようとしている人の何を見るかによって、まなざしや手の触り方、声のかけ方など、あらゆるものが変わってくるのではないか。

その答え探しをするかのように、介護の世界に入ることになりました。

(後編は近日中に公開予定です)

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