今週のかに座の運勢
illustration by ニシイズミユカ
何かがうしろからやって来る
今週のかに座は、いつかは向き合わなくてはならなかった因縁に手を伸ばしていくような星回り。
日が暮れると寒くなる。大寒(おおさむ)小寒(こさむ)、山から北風小僧がとんできた。うしろから、夜の小僧がとんでくる。「うしろから大寒小寒夜寒(よさむ)哉」(小林一茶)は、そんなおとぎ話やわらべ歌を連想させる一句。作者の故郷である北信濃の迫りくる山並みが目に浮かぶようです。
特に「うしろから」というのがいい。重く暗いものとしての夜や冬が、軽やかなリズムのなかでかえって存在感を増していくように感じられます。こうした土臭さというか、ぬぐいがたい百姓としての“地”のようなものは、現代人が小手先で詠もうとしてもなかなか出てきません。
そしてそうした土臭さは、どこか晩年に近づくまで苦労の連続だった作者の生き様にも繋がってくるようです。今のあなたもまた、あくまで軽やかに身のうちの「重く暗いもの」をそっとほどいていくといいでしょう。
今週のしし座の運勢
illustration by ニシイズミユカ
空白に雪が積もる
今週のしし座は、<スケッチ>という文章群を、机の引き出しに溜めていた村上春樹のごとし。
1985年に刊行された、村上春樹の短編集『回転木馬のデッド・ヒート』。そのまえがきには「本当の小説を書くべきじゃなかったのか」という葛藤を抱えつつも、小説でもノン・フィクションでもない、村上本人が実際に見聞きした数々の話を登場人物が特定されないよう細部を改変していった断片的文章=スケッチをまとめるしか、この頃は手がなかったのだという本人の弁が記載されています。
村上はそうしたスケッチ群を「身よりのない孤児たち」に喩えるのですが、もし人がそこに何か奇妙な点や不自然な点を感じるのだとしたら、それは自分たちが作り出した影のようなものだからではないでしょうか。つまり、事実や人生というのは、私たちが能動的に創り出しているものなのではなくて、あくまでそう見えるだけなのだ、と。
「我々が意志と称するある種の内在的な力の圧倒的に多くの部分じゃ、その発生と同時に失われてしまっているのに、我々はそれを認めることができず、その空白が我々の人生の様々な位相に奇妙で不自然な歪みをもたらすのだ。少なくとも僕はそう考えている。」あなたも、夜の雪がただ静かに降り積もっていくように空白を生きていくといいでしょう。
今週のおとめ座の運勢
illustration by ニシイズミユカ
芸は身を助く
今週のおとめ座は、自分を大切にするための創意工夫に時間を割いていくような星回り。
「冬旅や足あたゝむる馬の首」(誐々)は元禄の無名作家の俳句を、柴田宵曲が編纂した『古句を観る』から抜粋した一句。掲句はただ馬上旅行のつらさを訴えている訳ではなくて、足で触れた馬の首のあたたかさをなまなましく感じ、それから旅人としてのおのれの侘しさがしみじみと実感されてくるというのがこの句の味わい深いところです。
作者の意識は他者のところへ向けられているのではなく、あくまで自分自身に集中しているのです。無理をしている自分にきちんと対処してそれをゆるめ、そのありがたさの裏で、もしこうであったならもっとよかったな、とさらなる欲求の芽生えに気付く。
その意味では、自分を大切にするとは、つらさや悲しさをただなくしていくことではなくて、欲求と満足のあいだの微妙なあわいを豊かにしていくということなのかもしれません。今のあなたもまた、そうした豊かさをこれまでより一段深く切り開いていくことがテーマとなっていきそうです。
今週のてんびん座の運勢
illustration by ニシイズミユカ
聖なるものに目を見開く
今週のてんびん座は、怠惰と余暇との違いについて再認識していくような星回り。
「コンテンプラチオ」とは、キリスト教の精神生活の理想とされる言葉。通常は修道僧が人里離れた荒野や修道院で行っている内観としての修行などを指すのですが、カトリックの哲学者ピーパーは『余暇と祝祭』の中で、現実のなかで目を開くこととしてより平易に定義し直しているのです。
中世の天使博士トマス・アクィナスは「愛のあるところ、そこに眼がある」と言ったそうですが、この「愛」の対立概念として「怠惰」を挙げていました。中世において「怠惰」というのは日々の仕事にいそしむ「勤勉」と対立するものではなく、むしろ十戒の第三の掟「あなたがたは安息日を聖なるものにしなさい」に背くもの。つまりは「神的なものに目を見開くこと」に逆行する積極的行為と見なされたのです。
このアクィナスの指摘は、なかなか言われてみなければ思いつかないのではないでしょうか。今のあなたもまた、いかに怠惰ではなく余暇を習慣化できるかが問われていくはず。