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[6/7〜6/13の運勢]6月2週目の運勢はどうなる?SUGARさんが贈る12星座占いをチェック!

今週のかに座の運勢

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illustration by ニシイズミユカ

はるかなスケールの中に身を置いて

今週のかに座は、純粋な偶然性に裸身で触れていくような星回り。

俳句はある日ある時のかけがえのない一瞬が言葉で映し出された表現であると同時に、そこに作者の命のきらめきが込められることで詩となり、芭蕉はそれを「ものの見えたる光消えざるうちに言ひとむべし」と言いましたが、「五月雨や降り残してや光堂」(松尾芭蕉)は、まさにそうした光が異様な瞬きとともに灯った句のひとつでしょう。

掲句の「光堂」とは、平泉中尊寺の本尊である阿弥陀如来を安置した金色堂のこと。建立されたのは鎌倉時代で、作者はその間の約500年の時間の流れを感じ取っていると同時に、長い道のりの果てで自分を待っていたものとやっと出会えたという感慨がそこに込められているのではないでしょうか。

つまり、この「光堂」とは、気の遠くなるようなはるかな過去から残された珠玉の時空であり、また自身が歩んできた道のりの先で待ち構えている可能性としての時空でもある訳で、両者と作者は大いなる循環のなかで一体化している訳です。あなたもまた、今ここに在る自分にさまざまな来し方行く末が映し出されていくことになるかも知れません。

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今週のしし座の運勢

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illustration by ニシイズミユカ

水車、嬰児、母親

今週のしし座は、「みずから」と「おのずから」のあわいに自分を置いていこうとするような星回り。

日本人の思想伝統では、あらゆるものが「おのずから成るもの」として尊重されてきた訳ですが、と同時に、人間は他の動物と違ってそうした「おのずから」の状況環境を「みずから」の働きに則して展開していくという不思議な二重性があるところにこそ生命力の躍動(=たましいの働き)を感じてきたのではないでしょうか。例えば、それは次のような一文の中にも見出されます。

『それ人道は、たとえば、水車のごとし。その形半分は水流にしたがひ、半分は水流に逆うて輪廻す。丸に水中には入れば廻らずして流るべし、また水を離るれば廻ることあるべからず。』

ここで言う「水流」とは、いわば物事のおのずからの働きのことですが、逆にみずからの働きはそれに丸ごと従うのでもなければ、それから離れてそれを一方的にコントロールするというのもでもない、そのあわいにおいて初めて成立してくるものなのかも知れません。あなたもまた、コントロール欲を放棄しつつも、特定の誰かや組織と関わっていくちょうどいい塩梅に当たりをつけていくべし。

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今週のおとめ座の運勢

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illustration by ニシイズミユカ

星の時間の到来

今週のおとめ座は、仮定された有機交流電燈の明滅を感じとっていくような星回り。

「翡翠(かわせみ)」は、渓流などで水中の魚を狙う翡翠色の鳥で、高いところから急降下して、魚をたくみに捕らえることで知られています。そして、翡翠がその川に棲んでいるかどうかは、川の清濁や、公害の有無を決定付けるバロメーターともなるそうですが、確かにあの鳥のいろどりは清流にふさわしいものと言えます。

「翡翠は流れをかつと涼しくす」(長倉いさを)は、おそらくそんな翡翠が突然目の前をよぎり、瑠璃色の羽をひるがえして水面すれすれに飛び去った一瞬の印象を詠んだもの。特に作者は「かつと」という言葉で、まぶしいばかりの夏の日差しを負って飛翔する翡翠の姿と、水面が乱反射してきらめいてるさまとを同時に捉えています。

それ以前と以後とで世界がまったく別物に見えてしまうような一瞬の涼感。それは五感を包んでいるより大きな自分の気配が強まった何よりの証しであり、世俗的な自分が相対化されていく際の一つのサインでもあるはず。あなたもまた、関わっていかざるを得ないしがらみの在り様がカチリと切り替わって決定的な一歩を踏み出す瞬間を迎えているのだと言えるでしょう。

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今週のてんびん座の運勢

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illustration by ニシイズミユカ

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今週のてんびん座は、消化のしにくさ、難しさにこそ留まっていこうとするような星回り。

セバスチャン・ブロイは、2017年に刊行されたイギリスの批評家マーク・フィッシャーの『資本主義的リアリズム』のあとがきにあたる「諦めの常態化に抗う」という文章の中で、『資本主義は欲望と自己実現の可能性を解放する社会モデルとして賞賛されてきたにもかかわらず、なぜ精神健康の問題は近年もこれほど爆発的に増え続けたのだろう?社会的流動性のための経済的条件が破綻するなか、なぜ、私たちは「なににでもなれる」という自己実現の物語を信じ、ある種の社会的責務として受け入れているのだろう?』などと問いかけています。

ブロイのこうした問いかけは、あきらかに、私たちがそれぞれに体験している「傷つけられた生」を、単に「個人の物語」として自己完結的に捉えてしまわないように、という忠告を含んでおり(大坂なおみ選手の記者会見拒否の一件もそうであるように)、そうした捉え方をしている限り、先の問いの答えはいつまでも明かされないままでしょう。

今週のあなたもまた、なんとなく感じていた不安感をうやむやにせず、きちんと自分なりの言葉にしていくべし。

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