今週のかに座の運勢
illustration by ニシイズミユカ
つっこみ待ち
今週のかに座は、万事おおらかに。
「大風やはうれん草が落ちてゐる」(千葉皓史)という句は、大風が吹いているなか、外に出てみると、路上にほうれん草が一束落ちていたという、ただそれだけの意味ですが、一読して妙に気持ちがいい感じのする一句です。
誰かが落としたのか、この後ほうれん草はどうなってしまうのかは一切不明。それが何とも言えない滑稽味を醸しますが、青々とした「ほうれん草」は春の季語であり、作者はそこに春の到来を感じたのかも知れません。
それが路上に落ちているほうれん草がいくら唐突で不相応なものであれ、どこか掲句はおだやかな雰囲気に感じられます。あなたもまた、自分自身をこれまでの文脈からすれば唐突で不連続に思える場所へと置いていくことになるかもしれません。
今週のしし座の運勢
illustration by ニシイズミユカ
みっともなくも美しく
今週のしし座は、こっちでやっているうちにあっちでもできているという話。
『日本霊異記』の「智者の変化の聖者を誹り妬みて、現に閻羅の闕(みかど)に至り、地獄の苦を受けし縁」とは、行基というお坊さんのことを妬んでいた智光というお坊さんについての話。とても知恵のある人だったのですが、行基への嫉妬を抑えきれなくなって、つい自分のほうが優れているのにとか、あることないこと悪口を言っていたら病気になって死んでしまった。
それで閻魔の宮殿に行って地獄で拷問されて苦しみを受けるのですが、そこで立派な楼閣を発見。これは「行基菩薩が亡くなられたら住まわれるのだ」と言うのです。結局、智光は死後9日目に生き返って、行基に謝り助かるのですが、この世に何かしているあいだに、あの世でも何かができているという話は、仏教の広まる前から割と出てきます。
自分で家をや家族、この世で目に見えるものをつくっているあいだに、魂の方も目に見えないなにかをつくっていて、それらは表裏一体。これはひっくり返せば、この世であこぎなやり方で儲けていると、向こうではだんだんボロ屋ができているということでもあります。あなたも「何を為すべきではないか」という視点から今後の方向性について(主に仕事)、改めて考えてみるといいでしょう。
今週のおとめ座の運勢
illustration by ニシイズミユカ
切実であるということ
今週のおとめ座は、みずからの心の拠り所がさえざえと光り輝いていくような星回り。
「北斗星七つと月といま谷間」の作者・杉田久女は、近代俳句における最初期の女性俳人で、格調の高さと華やかさのある句で知られた人。しかしその一方で、家庭内不和や師である高浜虚子との確執、そして精神病院での死など、その悲劇的な人生でもよく知られる伝説的人物でした。
掲句は、精神病院に入ってから死までの3カ月のあいだに詠まれたもの。厳しい冬空で「七剣星」とも呼ばれた北斗七星とともに、普段よりどこか鋭く光る月の姿に、おそらく自身の俳人として至った、いや至るべき境地を見ていたのでは。
それは「いま谷間」と自身の暗い現実を直視するまなざしによって、いよいよ高みにのぼり、作者にとっても読者にとってもより決定的なものとして胸に刻まれていきます。いま谷間、されど月は高きにのぼりゆく。そこには師への思いも重ねられていたのかも知れません。今週のあなたもまた、それくらいの切実さをもって自身の精神的な拠り所をしかとまなざしていくことになるでしょう。
今週のてんびん座の運勢
illustration by ニシイズミユカ
与えられることから始めよう
今週のてんびん座は、愛される側の役割を全うすることで相手に力を与え、幸せにしていこうとするような星回り。
労働とは、必然的に他者とのコミュニケーションを含むもの。だからこそ、いかにしてお互いに相手の人格の価値を享受して歓びを感じ合えるかという問題/課題が生じてきてくるということについては、すでに青年期のカール・マルクスが『経済学・哲学草稿』において指摘していたことでもありました。
「もし君が相手の愛を呼びおこすことなく愛するなら、すなわち、もし君の愛が愛として相手の愛を生み出さなければ、もし君が愛しつつある人間としての君の生命発現を通じて、自分を愛されている人間としないならば、そのとき君は無力であり、一つの不幸である」
自分の誰かへの愛が正当であると感じられるのは、その誰かが自分から受け取るだけでなく、自らもまた誰かに愛を与えるようになった時に他ならないのだとマルクスは言っている訳です。あなたもまた、自分もまた誰かから愛を受け取ってきたのだを思い出していくことを通して、逆に自分が決して無力な存在ではないのだということを再確認していくことができるかも知れません。