今週のさそり座の運勢
illustration by ニシイズミユカ
夢に浮かんでいるものとしての日常
今週のさそり座は、「見れども飽かず」ということの意味を知っていくような星回り。
「土間にありて臼は王たり夜半(よは)の冬」の作者、西山泊雲の家の庭にはふるい「臼(うす)」があって、長年にわたって少しずつその臼が朽ちていく様を観察してきたのだそう。掲句では冬の夜、土間に置かれた臼がすべてのもののうちで一番くらいの高い、王者のごとく見えるのだと言うのです。
これなどは、特にずっと臼を見続けてきた作者の心中から、おのずから醸し出てきた感慨であり、と同時にあくまで事実の写生でもあることで、絶妙な味わい深さを打ち出すことに成功している。
そうした、長年にわたって観察してきたものがあるかどうかということが、どうも俳人としての面白さや魅力ということと繋がっているところがあって、これは恐らく俳人に限った話ではなく、すべての表現者に通じていくことであるように思います。あなたもまた、何気なくでも長年まなざしを送り続けてきたものに自分が支えられているのだということを実感できるかも知れません。
今週のいて座の運勢
illustration by ニシイズミユカ
的確にかましていくには
今週のいて座は、すっかり硬直している状況や、文脈に風穴をあけていこうとするような星回り。
松尾芭蕉が仲間たちと詠んだ俳諧「冬の日」の出だしは、「狂句こがらしの身は竹斎に似たる哉」という発句から始まり、それに続いて「狂句こがらし」をテーマに一門が順番に詠んでいったのですが、とにかくこの出だしがカッコいいのです。
「竹斎」とは江戸時代初頭の仮名草子の主人公で、やぶ医者のこと。それで京都で失敗して、東海道を行脚しながら江戸に下ってくるのですが、そのときに各地でしゃれや風刺をきかせた狂歌(短歌)を詠んでいる。いわば芭蕉の先輩にあたるのですが、芭蕉はここでその竹斎に自分を重ねているんですね。
そもそも俳諧というのは、雅な和歌では絶対にしない表現をしていくものですが、芭蕉はここで日本文化の根底にある和歌に風穴をあけやるぜ、という決意表明をしている訳です。もし現代語訳するなら「北風ピューピュー吹いてる中、竹斎みたいにやってきたぜ。旋風を起こしていくからよろしくな!」ってなところではないでしょうか。あなたもまた、厳しい「冬」の時代にあえてかましていく挨拶を考え、そこに自身を賭けてみてはいかがでしょうか。
今週のやぎ座の運勢
illustration by ニシイズミユカ
繋がり直せば、豊かさはそこに
今週のやぎ座は、いつの間にか失っていた心地よい余韻を取り戻していくような星回り。
「女湯もひとりの音の山の秋」(皆吉爽雨)で詠まれているのは、ただ一人温泉の静けさに浸っていると、壁ひとつ隔てた女湯の方でも、こちらと同じくただ一人らしい湯を汲む音や、桶の音がかすかに聞こえる、そんな情景。
そうして浴場内を反響していく音は、作者の脳裏に女体を描かしめただけでなく、また山ちかくの温泉の静けさをも深めたのでしょう。これは「ひとりの音の」の最後の「の」がじつに巧みにきいた効果で、それまでの一人ずつの情景を「山の秋」と並列につなげていくことで、そこにさらに情趣を含ませ、どこか心地よい余韻をのこしえている訳です。しかし、いまの日本社会では日々の生活や人間関係から、こうした心地よい余韻というものを感じることがどんどん少なくなっているように思います。
それは自分優位か相手優位に偏り過ぎてしまっていて、そのあいだに「山の秋」のようなそのときどきに自然にもたらされる偶然や人間以外のことに関するリアリティの余白に、人びとの目が行かなくなってしまっているということと、表裏にあるのでは。あなたも、身の周りに秘かにたたずんでいる偶然や余白にしみじみと浸ってみるといいでしょう。