今週のかに座の運勢
illustration by ニシイズミユカ
闇の感覚
今週のかに座は、想定の枠そのものが、半強制的に広げられていくような星回り。
「大年(おおどし)の何に驚く夜啼鶏(よなきどり)」(佐藤春夫)の「大年(おおどし)」とは、1年の最後の日、ないしその夜のこと。新年を迎える準備はあらたか済ませ、あとは心静かに過ごしたいところ。ところが、そのタイミングで庭で飼っている鶏がにわかに鳴きだした。いったい何に驚いているのだろう、というのが句の大意。
狐か貂(テン)あたりが、飢えて襲いにきたのかもしれないと、鶏小屋を見に庭に出てみたものの、懐中電灯で照らしても何事もなかったかのように静まり返っているばかり。老いてぼけてきた鶏が悪い夢でも見たのか、それとも、いずれでもない自分の想像を超えた何かがそこで起きていたのか。
作者は明治生まれの文豪ですが、ひとつ分かっているのは、当時の庭というのは現代の住宅街のようなこじんまりした庭ではなく、山野へと直接続く鬱蒼とした場所でもおり、そこに息づく闇というのは現代人の想像以上に深かったのだということ。あなたもまた、自分の中にもそんな「夜啼鳥」をもったつもりで、みずからの想像の限界が破られる余地を残しておきたいところです。
今週のしし座の運勢
illustration by ニシイズミユカ
人間活動
今週のしし座は、思いきり「馬脚をあらわす」ような星回り。
哲学とは、ある問題に対する唯一の解答を見つけることではなく、個において問いそのものを深めていくことにその本質がありますが、哲学者ハンナ・アレントは、それを移ろいやすい「思考」ではなく、「行ない」に着目し重きを置くことで可能にしていきました。
「私たちがおこなっていること」すなわち環境に働きかけていく営みを、彼女は「労働(labor)」「仕事(work)」「活動(action)」の3つに分け、例えば台所でオムレツを作るのは「労働」で、タイプライターで作品を書くのは「仕事」としたのですが、最後の「活動」をめぐる記述を、古代ローマの知識人カトーの言葉「なにもしないときこそ最も活動的であり、独りだけでいるときこそ、最も独りでない」を引いて終わってみせたのです。
独りでありながらも、心の奥底の深いところで他者とつながっていくこと。それが「活動」の本質なのであり、「多数性」という人間の条件なのだと彼女は言います。労働でもなく仕事でもない活動の時間を、生活や人生の中にいかに持ち続けていけるか。年末年始のしし座は、そんなことを念頭において過ごしてみるといいかも知れません。
今週のおとめ座の運勢
illustration by ニシイズミユカ
醜さを含めた美を
今週のおとめ座は、虚飾を捨てて、自己に忠実に向かい合っていくような星回り。
「冬の日や前にふさがる己が影」(村上鬼城)は、自分の影が自分の前に立ちはだかってまるで行く先が塞がっているかのようだ、というふとした思いから発された句。春とか秋といった快適な時候でなく、年の暮れも近づいてきて冬の寒さがより一層身に沁みる時分ですから、貧乏に苦しんでいた作者は温かいものも十分に食えずにいた可能性も。
まさに自分の影法師が自分の前に立ち塞がっているかのような、貧者の行き詰まった心持ちを率直にうたっており、月の清らかな光を誇りとするなどと言った綺麗事や負け惜しみを言わないゆえの“自己への忠実さ”が際立っているように感じます。
その意味で、貧しさや厳しさの象徴でもある「影法師」は、他の何よりも自己へのごまかしを削ぎ落してくれる存在なのだとも言えるかもしれません。あなたもまた、自分の道をふさいでいるものがあるとしたらそれは何なのか、いったん立ち止まって考えてみるといいでしょう。
今週のてんびん座の運勢
illustration by ニシイズミユカ
なにかを繊細に紡ぐということ
今週のてんびん座は、慌ただしい日常に、ふわりと繊細さと柔らかさが取り戻されていくような星回り。
ある日、ひそかに稲妻小路と呼ばれる界隈に突然あらわれ、はじめ隣家の飼い猫となった後、庭を通ってわが家を訪れるようになった仔猫チビ。これについて、平出隆の『猫の客』では次のように描き出されています。
「小さな仄白い影が見えた。そこで窓を開け、冬の暁に連れられてきた来客を迎え入れると、家の気配はひといきに蘇った。元日にはそれが初礼者(はつらいじゃ)となった。年賀によその家々を廻り歩く者を礼者という。めずらしくもこの礼者は、窓から入ってきてしかもひとことの祝詞も述べなかったが、きちんと両手をそろえる挨拶は知っているようだった。」
チビは静かに境をくずし、作者はその在りし日の思い出を繊細なエクリチュールで紡いでみせた訳ですが、そうして小路に流れた光に、どこか心が洗われたような気分になった読者も少なくないはずです。あなたもまた、心に堆積した塵芥(ちりあくた)をそっと洗い流していくだけの機会をきちんと作っていくべし。