田房 公立の中学校って、運動会で得点種目として長縄(大縄跳び)をやるところが多いみたいですよね。跳ぶのが苦手で何度もひっかかる子はクラスでお荷物扱いされ、本番では晒し者のようになってしまいます。
星野 長縄をみんなでやることがインクルーシブなのか?という話ですよね。クラスみんなで同じ目標に向かうのはいいですが、ひとりひとりが異なる強みを持っているので、跳ぶのが上手いか下手かだけではなく、それぞれがどんなところを頑張れば輝けるのかを考えたいものです。
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星野 僕が以前、小学3年生の担任をしたときに、こどもたちから「クラス発表で長縄をやりたい」という意見が出たんです。
その際まず、「そもそもクラス発表でなぜ長縄をやる必要性があるのか」、そして「もしやるのであれば、何を最優先にして長縄をするか」をこどもたちと話し合いました。
「回数も大事だけど、とにかくみんなが楽しめることを大事にしたい」という意見が出たため、長縄の跳び方についてさらに話し合いました。すると、跳び方を全員一律にそろえるのではなく、それぞれの意向や自己決定をふまえ、跳び方を選べるようにすることになりました。「縄を回さないで揺らすだけにしてほしい」という子もいれば、「苦手だけど挑戦したいから回してほしい」という子もいました。
田房 その「誰もが楽しめるような工夫や先生からの語りかけ」がありがたいですね。
長縄が苦手な子がクラスメートから責められるなんて、本来は必要のないことだと思います。もしその子が肩身が狭くて学校や運動会を休んでしまったら、クラスメートも気まずくなる。かといってクラスメートが手助けしようにも、全員参加の得点種目としては限界がある。
結局、苦手で責められている子が、つらくてもちゃんと長縄に参加することでみんなが救われるという歪んだ状況になっているような。
最近では、生徒の希望を聞いて、やりたくない子は不参加も選べるという学校も増えていると聞きます。でもまだ各学校の判断に委ねられているようで、その学校に入ってみないとどんな方針なのかがわからない、というのが現状です。
大人のマイノリティ性を伝える
星野 教員は、ある種の権威や権力を持っていて、僕はそのこと自体は悪いわけではないと思っています。問われるのは、その権力をどう倫理的に使うかということです。立場の弱い人をエンパワーメントするために権力を行使することが大事なのかなと思っています。
長縄をすると決めたときにもう一つ、僕自身の自己開示もしたんです。
「小学生の頃に運動が苦手で、運動が得意な子に責められて傷ついた経験がいまだにトラウマになっている」と打ち明けました。
「だから、クラス発表の長縄が、誰かのトラウマになるような経験になってしまうことだけは、先生として避けたいんだよね。そのためにみんなから知恵を貸してもらいたいし、協力もしてほしい」。そう、こどもたちに伝えました。
こどもたちが多様であるように教員も多様であり、それぞれがさまざまなマイノリティ性を持っています。教員が自分の言葉で語ることで、マイノリティ性が多層的に積み上がり、インクルーシブな学校空間ができるように思います。
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田房 大人とこどもがそうやって対等に対話ができるのは重要ですね。
星野さんはOTEMOTOのインタビュー記事でこんな話をされてましたよね。児童から「先生、結婚してないの?」と聞かれたときに、忙しくてとっさに冷たい返事をしたけれど、翌日、きちんと理由を伝えて謝った、と。それこそが人間同士のコミュニケーションだと感じました。
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保護者は、学校の様子がわからないだけについ先生をディスりがちですが、国が公教育にお金をかけないことが根本的な要因なのに、現場で努力している先生が矢面に立ってすべての批判を受け止めているケースもあると思います。
以前、授業参観で猛暑の日に体育の授業を見学したときに、30人ほどの生徒を1人の先生が指導していたんです。こどもから聞いていた話では集団行動のルールが厳しすぎると感じていましたが、それだけ厳しく統制しないと命を守れないのだということが現場を見て初めてわかりました。
一方的に批判だけするのではなく、先生たちの努力や工夫、進化しているところはきちんと評価して、課題をともに考えていくことも必要ですよね。
「わが子のため」の葛藤
星野 僕自身、多様性教育を実践するようになったのは、過去に同級生を傷つけたことや抑圧してきた反省からです。ジェンダーやセクシュアリティについて、こどもたちと対話をしながら学んできましたが、正解が見つかっているわけではありません。
保護者も同様に、葛藤を抱えていると感じます。自分たちが受けてきた教育の呪縛や、学歴至上主義の成功体験から逃れることは難しいものです。現行のシステムに違和感を覚えつつも、わが子のこととなるときれいごとではなく、この子の人生をよりよくしたいと望むのは当然ですよね。