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[8/2〜8/8の運勢]8月1週目の運勢はどうなる?SUGARさんが贈る12星座占いをチェック!

カルチャー

今週のかに座の運勢

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illustration by ニシイズミユカ

瞳のなかを星に塗る

今週のかに座は、これまで見えなかったものが見えるようになっていくような星回り。

「鵺(ぬえ)」とは、『平家物語』や『源平盛衰記』などで御所を騒がせたとされる怪物で、「頭が猿で、胴は狸、尾は蛇」でいずれも妖異をもたらす動物のキメラであり、さらに翼が生えていることから、古来から「魂を運ぶもの」として畏怖された鳥としての特徴も備えていました。

現代では、そこから転じて掴みどころがなく得体の知れない人物の喩えに使われていますが、その意味では、どんなに時代がたち夜が明るくなったとしても、どこの社会にも「鵺」は目撃され、人々の噂のなかで生き続けるのではないでしょうか。

「鵺あちこち瞳のなかを星に塗る」(宮本佳世乃)で詠まれている「鵺」とは、社会の周辺に排除された者や、権力に敗れた者の象徴であった「鬼」たちの中でも、暗黒の他界から富と力を持ち帰る力にすぐれた越境者でもあったのかも知れません。あなたも「瞳のなかを星に塗る」ことで、そうした見えない富と力の消息が、すでに自分の手のうちにあることに気付かされていくことになりそうです。

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今週のしし座の運勢

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illustration by ニシイズミユカ

これでよし

今週のしし座は、誰に媚びるでもなく、時代に流されるのでもなく、自身の歩むべき道を見出していこうとするような星回り。

俳句の宗匠(マスター)となって賑やかな日本橋界隈に住んでいた松尾芭蕉は、三十七歳の時に突如として、当時は辺鄙な場所であった深川の粗末な小屋に移り住みました。そして、それまでの売れ線の俳句とは異なる独自の作風を確立し始めたのです。その頃に詠まれた「枯枝に烏のとまりたるや秋の暮」という句に添えて、歴史小説家の中山義秀は『芭蕉庵桃青』の中で次のように書いています。

「彼はその頃からして、体内になにやらうごめく力を感じていた。小我をはなれ眼前の現象を離脱して、永遠の時のうちに不断の生命をみいだそうとする、かつて自覚したことのない活力である。/その活力が「烏(カラス)のとまりたるや」という、字あまりの中十句に、余情となってうち籠められている。」

中山もまた、早咲きの同級生を横目にさまざまな困難を経て、やはり三十七、八歳頃にようやく自身の文学の道を確立。中山にとって文学の道とは、時代や状況に流されることのない、独立自尊の気風であり、芭蕉を描いた筆致にも、自然と自身のたどってきた道への思いが重ねられていたように思います。あなたも、自己卑下するのでも過大評価に陥るのでもなく、ありのままに自分自身を捉え直していくことがテーマとなっていくことでしょう。

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今週のおとめ座の運勢

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illustration by ニシイズミユカ

無常に立ち返る

今週のおとめ座は、これまで当たり前にあったモノ/コトが急に覚束なくなるような星回り。

それはまるで、「夏はあるかつてあつたといふごとく」(小津夜景)という句のよう。近年こそ温暖化や異常気象などで季節感が狂いつつあるものの、考えてみれば、有史以来数千年にわたって地球上の各地で季節が毎年かならず同じ時期に巡ってきたということは、何もかもが不確かなこの世界にあってそれ自体が奇跡のようなことであるように思います。

ただし、いま生きているどんな人であれ、そうした季節の巡りを自分の感覚に基づいて100%の確信できている人はいないでしょう。誰しもが少なからず、「かつてあつた」という理由から今年も、今も、そしてこれからもあるのだろう信じて疑わない“ふり”をしたり、お互いにそれを強化しあって生きているのだと言えます。

掲句はある意味で、そうした“ふり”への無自覚的な没入から解かれて、真顔に戻った人間の何とも言えないまなざしと共にあるのではないでしょうか。そして、それは秋でも冬でも春でもなく、いつもどこか不思議な懐かしさと共に再生される夏という季節でなければならないのです。あなたもまた、また一つ古びた「共同主観」から脱け出していこうとしているのかも知れません。

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今週のてんびん座の運勢

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illustration by ニシイズミユカ

夢のあとさき

今週のてんびん座は、つれづれなるままに集めた「部分」へのこだわりを、強めていこうとするような星回り。

西洋では長いもの、大きなもの、派手なものが好まれ、日本では逆に短いもの、小さなもの、地味なものが好まれる。それが端的に現われたものが随筆でしょう。方丈記も徒然草も、そこにあるのはてんでばらばらな話題の寄せ集め。西洋のエッセイは形式こそ自由ですが、ゆるやかにせよ建築的なプラン(全体の構図)はしっかりとあり、これを読みなれた西洋人が日本の随筆を読んだら、そのずさんさと統一感のなさに唖然としてしまうかも知れません。

なぜこうした違いが出てきてしまうのか。それは日本人が「部分」あってこその「全体」という考えやこだわりが強く、ほとんど「全体」など眼中にないからでしょう。「全体」はあくまで後からついてくるものであり、偶然的なものの結果でしかないのです。

フランス文学者の野内良三はこうした日本特有の随筆や和歌、俳句などを「部分の芸術」と呼びましたが、「今ここ」が問題となる偶然性においては、自然と「在ることの可能性が小さいもの」に注目するスタンスが大事になってくるのです。あなたもまた、ミクロの視点をこそ改めて大切にしていきたいところです。

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