今週のかに座の運勢
illustration by ニシイズミユカ
川の流れのように
今週のかに座は、必要なものを必要な分だけ手元に残していこうと、改めて意図していくような星回り。
冷蔵庫の扉ほど、私たちが日々、何の気負いもなく無意識に開けているものはないが、「生も死も冷蔵庫にも扉あり」の作者・今瀬剛一は、ここで死というものもまた、それと変わらないほど不意に迎えるものなのだという。
作者の自解によれば、自身の主治医であり、俳句の門下生であった人物を見舞って、愉しく歓談してきたその夜のうちに訃報が飛び込んできて、取るものも取りあえず駆けつけるとあれだけ元気だった人物画すでに冷たくなっていたのに接し、思わず「冷蔵庫にも扉あり」と叫んでいたのだそうだ。
つめたい死への扉を開けたとき、ガランとしているのはさみしいが、溢れだすほど物がパンパンにつまっているのも節操がない。どうしたって私たちは不安に駆られて物を買い込みすぎたり、自分のことをおろそかにしたりしてしまうけれど、こういう句に接すると、やはり日頃から整えていくしかないのだろうと改めて痛感せざるを得ない。あなたもまた、つねに自身のかたわらにある「冷蔵庫」を眺めつつ、返すまなざしで自身のいのちの在り様を見つめていくべし。
今週のしし座の運勢
illustration by ニシイズミユカ
ほころんでナンボ
今週のしし座は、凝り固まった思い込みやプライドを捨てて、ほや~っとしていくような星回り。
文学研究者の芳賀徹は、日本の紀行文学の最高峰とされる松尾芭蕉の『奥の細道』のクライマックスは、通説では松島とか平泉とか、いわゆる名所旧跡とされ、伝統的に和歌に詠みこまれてきた場所にあるとされるのに対し、むしろそういう伝統文化の形式がほころびていく出羽あたりにあるものとして読まれるべきだろう、ということを述べていました。
和歌に詠まれた名所やその痕跡としての歌枕なんてものは、しょせん都会の貴族文化をモデルとして辺境を切り取ろうとする眼差しの副産物に過ぎず、逆にお高くとまった都会人の固定観念や想念体系が、みちのくに息づく古代的な地の霊のようなものに触れ、破られ、打ち捨てられるにしたがって、目に映ってくるものが生き生きと立ち上がってくるそのリアリティこそ、大切にされるべきだと言う訳です。
このあたりの話は、おそらく今のしし座の人たちの星回りにも通底するのではないでしょうか。つまり、さまざまな記号やしがらみにがんじがらめになった「都会人」である以前に、お前は現に生きているひとりの人間であり、生命体だろう?と。あなたもまた、そうしたほころびや破れということを肯定的に受け入れてみるといいでしょう。
今週のおとめ座の運勢
illustration by ニシイズミユカ
サーファーから葦笛へ
今週のおとめ座は、生産性や効率の追求といった文脈から外れて、ボーっとしていくような星回り。
浅黒く日に焼けて永遠の青春を享受しているかのように見えたサーファーも、秋も深まり冬が近づいてくれば、自然と海からあがって帰るべき居場所を探し始める。渡り鳥のように南国へと移動していくサーファーも少なくないのかも知れないが、「晩秋のサーファーひとり火を作る」(堀本裕樹)では、群れから外れたように「ひとり火を作る」姿が詠まれている。はぐれ鳥ならぬ、はぐれサーファーだ。
浜辺で流木や枯れ木を集め、焚き火をしている。はぐれサーファーは、器用に環境を変え、永遠の青春を続行しようとする代わりに、失われた青春に思いを馳せつつ、その事実を受け入れることで、自分のなかで何かが変わっていこうとしているのを、ただ感じようとしたのだとも言える。
たとえ今いる環境が厳しくとも、熱源さえ確保できれば、多少時間はかかってもそうした変化に対応していくことはできる。それは新たな事物に興味を持つことや、ちょっとしたことに感動すること。火を作らなければ、そんなことさえも難しくなるのだ。あなたもまた、心の奥底のほうでくすぶっている火の種にそっと息を吹き入れていくことがテーマとなっていくように思う。
今週のてんびん座の運勢
illustration by ニシイズミユカ
素朴な人間になっていく
今週のてんびん座は、素朴さやその美しさみたいなものに浸っていくような星回り。
教養人たちと交わって風流を楽しむというのは、金も時間も学識も美感もそろっていないとなかなか出来ない贅沢であり、教養とはそうした文化的コードに乗っかっていったり、楽しんだりする力のことを指しますが、あらゆる文化的コードが溢れかえって混線状態にある現代において最も教養があるのはむしろそうした伝統的な風流を捨て、教養人ぶらずにいられる人のように思います。
つまり、ただ素朴な人生やさびしい自然の風情にひたりたいと思う心が、肉体的にわいてくるまま、孤独な人間存在自身のさびしさを余計な知識や価値観をはさまずに直接感じていけるということ。それはたとえば、心がさまよう晩秋に、白く光る田舎の街の道を旅人となって歩いていく時に最も感じ取りやすいのではないでしょうか。
というのも、素朴の美というのはどこか色褪せたろころがあることが大切であり、新商品や新サービスが目まぐるしく展開されていく資本主義社会では色褪せた方が金の価値は下がる一方で、美的価値は逆に向上するのです。あなたもまた、他者や現実との交わり方に関して少し見直しをはかっていくといいかも知れません。