今週のかに座の運勢
illustration by ニシイズミユカ
グルーヴ感のあるわがまま
今週のかに座は、誰かをせっつくようにして胸の内の思いを昂ぶらせていくような星回り。
初冬の春を思わせるようなあたたかい気候を「小春」といい、そのやさしいぬくもりが特別感じられるとそれを「小春日和」と言いますが、それはまだ今一つ冬が来たという実感がわかず、なんとなく過ぎていく11月にふさわしい季語という気がします。
「彼の世も小春日和か郵便局あるか」(池田澄子)という句は、うららかなある日、“あちらの世界もこんな陽気なのかしら”という思いつきが、“だったら手紙のひとつでもくれればいいのに”という故人への追慕へと飛躍しているさまがなんともユーモラス。
ここでの故人とは、おそらく作者の俳句の師である三橋敏雄でしょう。命日は12月1日。やがてくる冷たく厳しい本格的な冬の到来を予感しつつ、陽だまりのような日々に愛おしさを募らせているのです。今週のあなたもまた、現実と実感のズレをグルーヴ感として享受して、思いがけない飛躍へと高めていきやすいでしょう。
今週のしし座の運勢
illustration by ニシイズミユカ
底抜け底抜け
今週のしし座は、癒し/癒されることの本質に立ち返っていくような星回り。
聖書の有名な隣人愛の教えは、当時のユダヤ教社会に横行していた人種差別が前提にありました。例えば、『ルカ福音書』の「よきサマリア人のたとえ話」の一節には、ある律法家がイエスを試すために、どうしたら永遠の命を受け継ぐことができるか尋ねています。
イエスは律法に書いてあるよう、『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。また、隣人を自分のように愛しなさい』を実行すれば命が得られると答えましたが、彼は自分を正当化しようとして「では、わたしの隣人とはだれですか」と質問。この問いかけは、イエスが実際に被差別民と付き合っていた事実を暴き出すためのものでしたが、イエスはこの後、追いはぎにあった人を見かけた3人の例を出して「誰が隣人になったと思うか」と問い返しました。
それは、隣人とは「~である」という仕方で固定的に定められるものではなく、各人が「なる」という仕方で実現するべき実践であることを明らかにしているように思います。今週のあなたもまた、みずから接近せずにはいられない関係において癒し/癒されていくことがテーマになっていくでしょう。
今週のおとめ座の運勢
illustration by ニシイズミユカ
優しくなろうよ
今週のおとめ座は、みずからの柔らかなこころの動きを感じ取っていくような星回り。
それはまるで、「雪を待つ。駅でだれかを待つように。胸にくちばしうずめて鳥は」(岸原さや)という歌のよう。誰かを待っているときの心の動きは、その相手が大切な人であればあるほど、しぜんと優しくなる。それは魂、あるいはいのちの原型というものが、身の一部をたがいにすり合わせるということ、つまり、身体がみずからに触れるということにあるからでしょう。
たとえば、二つの唇がくっつくところ、当てられた指、合わされたてのひら、重ねられた腿など。そうした触れあいがなければ、真の内的感覚もいきいきとした身体図式も感じなくなり、やがて生きているのか死んでいるのかも分からないような失神状態のなかで生きざるを得なくなるはず。
その意味で、くちばしを胸にうずめて雪を待つ鳥は、マフラーに首筋をうずめて誰かを待つ人と同じであり、いのちそのものを取り扱おうとしているのだと言えます。今週のあなたもまた、改めてそうした手つきで自分や他者を扱うことができるかどうかが問われていくでしょう。
今週のてんびん座の運勢
illustration by ニシイズミユカ
創造的習慣としての黙想
今週のてんびん座は、必要不可欠な怠惰をきちんと確保していくような星回り。
「自分はなぜここにあるのか」と考えること自体が、自分が存在する証明であるとして近代の幕開けを飾ったフランスの哲学者ルネ・デカルトは、朝が遅かったことでも知られています。評伝によれば、目が覚めてからもベットの中で考えごとをしたり、書きものをしたりして、11時かそこらまで寝床でぐずぐずしてそうで、しかも毎晩10時間はたっぷりと睡眠を取っていたいたのだとか。
デカルトは手紙に「私の心は眠りのなかで森や庭園や魔法の城をさまよい、想像しうるかぎりのあらゆる快楽を経験する。そして目が覚めると、その夜の夢と白昼夢を混ぜ合わせるのだ」とも書いていたそうですが、優れた頭脳労働をするには怠惰な時間が不可欠だと信じていた彼にとって、午前中のベッドのなかでの黙想は、1日のなかで集中して行われる唯一の知的活動でした。
今週のあなたもまた、インスピレーションを日常へと引き入れるための習慣づけを改めて意識していきたいところです。