無料の会員登録をすると
お気に入りができます

[3/15〜3/21の運勢]3月3週目の運勢はどうなる?SUGARさんが贈る12星座占いをチェック!

今週のかに座の運勢

picture

illustration by ニシイズミユカ

生まれ変わりへの助走

今週のかに座は、対人生の節目を迎えるための通過儀礼を済ませていくような星回り。

「赤き馬車峠で荷物捨てにけり」(高屋窓秋)は無季の句ですが、どこか春らしい陽気と切なさを感じさせる一句。「赤き馬車」が里から峠まで積んできたせっかくの「荷物」を「捨てにけり(捨ててしまったことだなあ)」という。理由は書かれていませんが、少なくともそんな光景が遠くに見えた時、作者の中で何かがストンと腑に落ちたであろうことは間違いないでしょう。

人生の途上で、理由もなしに大事な何かを突然捨てたくなって、捨ててしまった。直感的で出たとこ勝負のかに座の人たちというのは、人生のシーンの変わり目において、往々にして自分の半身のような存在を置き去りにしてしまうのではないでしょうか。

古来より峠には魔物が棲むと言われますが、「峠」=人生の境い目に差し掛かった者は、およそ人が行ったとは思えない魔物のような所業を人知れず行ってしまうものなのかも知れません。あなたもまた、一つの終わりを経験していくことで、次なる目標へと進み始めていくことでしょう。

続きはこちらから

今週のしし座の運勢

picture

illustration by ニシイズミユカ

日常を哲学する

今週のしし座は、ハンデを負いながら新しい道を開拓していこうとするような星回り。

俳句というのは決して王道を歩いて真っ向勝負をする代わりに、いったん離脱するとか、斜めから切り込むとか、そういう対抗するものとしての本質がある芸術。俳句に哲学性と技巧性を持ち込んで高度に結晶化させた松尾芭蕉などは、あえて旅に生きる漂泊に徹することでその境地を深めていきました。

時代が進むにつれその流れが難しくなっていった中、正岡子規の場合は長い病床生活こそがその鍵に。亡くなるまでの7年間は根津の一軒家でほとんど寝たきり生活を送りましたが、生活空間が極端に狭まったことを逆手にとりました。実際には見えるはずのない庭の光景を詠んでいくことで、芭蕉とは異なる道を開拓していったのです。

いずれにせよ、新しい道を開拓していく際には、何らかのハンデを負いながらやるというのがやり方の常だった訳ですが、根っからの芸術家肌であるしし座もまた、資本主義が極まった現代において芸術に対して最初からハンデを負っているのでは。あなたも自分なりの対抗的アプローチを見出していくことがテーマとなっていくでしょう。

続きはこちらから

今週のおとめ座の運勢

picture

illustration by ニシイズミユカ

無頼の春

今週のおとめ座は、不意にみずからの業のようなものが展開されていくような星回り。

「祝ひ日や白い僧達白い蝶」(小林一茶)は文政元年、作者56歳の頃の作。「白」が効果的に使われることで、この「僧たち」はいささか面妖であり、蝶は可憐であるばかりでなく、誰かの生まれ変わりかと思わせるような化なるものの気配を漂わせる。明るく穏やかながら、どこか死が濃厚に薫る春の魔性が句全体から感じられるのではないでしょうか。

いったいどういう意図でこんな句を詠んだのか。はっきりしたことは分かりませんが、晩年になって結婚した作者は2年前に待望の長男・千太郎を生後一カ月足らずで亡くし、そしてこの年に長女さとを得たものの、やはり生後まもなく亡くしています。

うがった見方ではありますが、掲句そのものに、長い沈黙のあと虚ろな表情でポツリとつぶやいた一言のような独特の質感があることからも、身の内に巣食う業(ごう)の深さに諧謔をもって向きあった一句なのではないかと考えてしまいます。あなたも、そんな作者のように認めざるを得ない現実を受け入れていこうとしているのかも知れません。

続きはこちらから

今週のてんびん座の運勢

picture

illustration by ニシイズミユカ

心むなしく知を改める

今週のてんびん座は、虚心で他者を受け入れぶつかり合う「遊び」の時空を切り開いていくような星回り。

江戸後期、各地の藩校の抱えていた共通の課題は、身分制度のぬるま湯に浸かっていた上級武士の子弟たちに学問への意欲を湧かせること。そこで全国の諸藩の優秀な遊学生が集まった昌平坂学問所を皮きりに採用・制度化され、普及していったのが「会読」でした。

会読とは文字通り「公開の場で共同で声を出し合いなされる読書」のことで、その後明治時代まで中頃まで隆盛していくことになるのですが、それは「素読」と呼ばれるテキストの丸暗記の過程を終了した上級者同士が「一室に集つて、所定の経典の、所定の章句を中心として、互いに問題を持ち出したり、意見を闘わせたりして、集団研究をする共同学習の方式」(石川謙『学校の発達』)だったようです。

現代社会では、読書は静かな場所で孤独に行われるすぐれて内面的な行為とされますが、日本でも明治初期までは黙読ではなく音読が主流だったのであり、他人のために朗読することは日常のそこかしこで頻繁に見られる光景でした。あなたも誰かと一緒に、誰かのために活動していくことの楽しさ嬉しさを改めて見出していきたいところです。

続きはこちらから
オリジナルサイトで読む
記事に関するお問い合わせ