今週のかに座の運勢
illustration by ニシイズミユカ
あらためて子供に留まる
今週のかに座は、「涙ぐむ」という振る舞いに何か深いものを感じていくような星回り。
人間は他の動物と比べて、未熟な幼児期が異様に長い生き物。発育過程が遅滞ないし遅延することで、胎児や幼児の特徴が保持される生物学的な現象は「ネオテニー(幼形成熟)」と呼ばれますが、アメリカの人類学者アシュレイ・モンターギュは人間は生物の中でもっとも劇的にネオテニー戦略を活用した生物であり、それは「子供に留まることが人間に文化の可能性をもたらす」のだとも述べています(『ネオテニー』)。
例えば、他のほ乳類のように母親の体毛にしがみついていることのできない人間の赤ん坊は、その代わりに大声で泣いて注意を喚起します。それはほとんど生理的な働きですが、「涙を流して泣く」行為は人間の大人にも遅滞されて保持されており、こらえつつも「涙ぐむ」ことで深い共感を促す訳です。
つまり、「涙もろさ」というのは子供を延長させたネオテニーの特徴であり、それこそが人間が人間であろうとするための分母的な時空なのだということ。あなたもまた、つねに新しい存在としての子供性をみずからの中に積極的に見出していくことになるはず。
今週のしし座の運勢
illustration by ニシイズミユカ
数寄数寄、大数寄
今週のしし座は、春の風のようにのどかにどこかへ吹いてたゆたっていくような星回り。
「寝仲間に我をも入よ春山」(小林一茶)は、作者がまだ江戸で独り暮らしをしていた42歳頃の作。下五の「春山(はるのやま)」は、故郷の北信濃の山容というより、どこか仕事でおもむいた先の山々から得ていた印象に、春の気分を添えて想像上で思い描いたのでしょう。
「寝仲間(ねなかま)」がごろごろしている部屋というのも、もちろん頭の中の空間。昼間から堂々とごろごろしている訳ですから、あまり広い部屋でないほうがいい。もちろん、あまり狭くても困りますが、その逆よりはいいはず。互いの気配がかすかに感じられるくらいの状態で、思い思いに寝転がっており、ぼそぼそしゃべっているのもいれば、眠っているのもいる。そのなかに入って、ごろりと寝る。
障子はあけっぴろげで、遠くに春の山が見える。そういう陶酔的な気分に浸るように入っていくという意味で、銭湯の湯舟につかるような句と言えます。あなたもまた、一時的にであれ自分をのんびり温和な春風のようにして「無」にしていくといいでしょう。
今週のおとめ座の運勢
illustration by ニシイズミユカ
周辺空間を変貌させてゆく
今週のおとめ座は、みずからにいのちあるものとしての“ピチピチ感”をもたしていこうとするような星回り。
押しつけられた秩序を相手どって、一見それに従いながらも完全にはそれにハマらず、手持ちの材料やその場の即興で「なんとかやっていく」方法について分析してみせた『日常的実践のポエティーク』。その中でミシェル・ド・セルトーは、その具体的実践として例えば「歩行」を取り上げています。
本来は「言い回し」や「言葉のあや」に近い、古典修辞学における「文彩」を意味する「フィギュール」という言葉を「歩行」に結びつけ、「空間を文体的に変貌させてゆく身ぶり」と位置づけ、リルケの言葉を借りて「動く身ぶりの樹々」と言い表します。
それは都市計画で指示された首尾一貫した固有の意味を、あらぬ方向に吹き飛ばし、「ねじ曲げ、粉々にし」つつ、「それでも不動を保とうとする都市の秩序から何かをかすめとってゆく」。あなたも、いまの自分に足りない予測不可能な動きをごく日常的な場面にこそ取り入れてみるといいでしょう。
今週のてんびん座の運勢
illustration by ニシイズミユカ
私たちは人間menとしてある
今週のてんびん座は、肌に馴染む人間味に触れていくような星回り。
「花の幹に押しつけてゐる喧嘩かな」(田村木国)を一読すると、花見の場での派手な喧嘩沙汰の光景が思い描かれるのではないでしょうか。「押しつけてゐる」ということですから、一方がやや強くて、胸倉でもとって相手を押していって桜の幹につけており、相手は必死に押し返そうとしている。
ところが、それから強く押さえつけている方が、ぎゅうぎゅうと相手を幹に押しやる度に、桜の樹は揺れて、はなびらがひらひらと散りかかる様子が思い描かれる。そして、そんな喧嘩を見る人たちが群れをなして周囲に垣をなし、またそうこうする内に誰かしらの仲裁が入りそうな予感が漂います。
そして、どうしたことかここで描かれる喧嘩は、舞台設定の派手さはあるものの凄味はなく、どこか子供っぽい微笑ましささえ感じられるから不思議です。あなたもまた、滑稽さも含めて改めて人と人とがぶつかりあう場に充ち溢れる活気と尊さに、打ち震えていくことになるかも知れません。