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[11/1〜11/7の運勢]11月1週目の運勢はどうなる?SUGARさんが贈る12星座占いをチェック!

占い

今週のかに座の運勢

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illustration by ニシイズミユカ

ワナビー匠

今週のかに座は、「才」と「能」とのあいだを最適化していこうとするような星回り。

中世の庭師のための指南書『作庭記』には、庭石を庭に配置するときは、石が潜ませている「こうしてほしい」という声を聞きなさい、その声に従いなさい、という教えがありました。そうすれば、庭と石との案配がおのずから決まってくる。そのことを会得しなさい、という訳ですが、これは日本の職人が大切にしてきた「才能」というものの感覚をよく伝えてくれているように思います。

それは簡単に言えば、「才能」というのは「才」と「能」の二つが組み合わさったものであり、「才」とは庭師や大工など人間の側がもっている技術や経験のことで、「能」は木や石や鉄などの素材が持っている潜在力のこと。

つまり、「才」とはあくまで「能」をいかし、はたらかせることで初めて意味をもつのであって、こうした才能観は現代の企業文化において奨励されるスキルアップやタレント(才能)など、人間の側にそなわっているものだけを重視する考え方とは明らかに異質なものと言えます。あなたも、存分に使いたいと思える道具や素材をまずはじっくりと選んだり、向き合っていく時間を確保していきたいところ。

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今週のしし座の運勢

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illustration by ニシイズミユカ

記憶の芋堀り

今週のしし座は、どこかで分かっていたことを、改めて深く実感していくような星回り。

親芋のそばに出来た子芋(こいも)。「地の底の秋見とどけし子芋かな」(長谷川零余子)は、それを掘り出した際の作者の感じを詠った句。この子芋は、大地の底の秋がどんなものであるかを見届けてきたと言うのである。

地上の秋に何が起きてきたのかということに関しては、われわれはよく知っているものと考えがちですが、実際のところその水面下の真実とは何であったのか、少なくとも自分にとって大切なことは何だったのか、ということに関してはよく知らないのでは。その意味で、作者に代わって子芋が見とどけてきたという「地の底の秋」とは、つまり日頃の日常的な自分の観点とは異なるパースペクティブから、ひょいと自分自身や、自分のよって立っている現実を見つめ直した結果、掘り出され、転がりでてきた真実のメタファーであるとも解釈できるはず。

そこには思っていた以上に複雑なせめぎ合いがあったのか、逆に何もなく、がらんとした空洞がただ広がっていただけなのか。それは作者自身がどこかで分かっていたことでもあるように思います。あなたも、ここしばらくのあいだ放置していた実感を、ひょいと掘り出してみるといいかも知れません。

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今週のおとめ座の運勢

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illustration by ニシイズミユカ

無為/無意味からの離脱

今週のおとめ座は、あえて別れるという選択をすることで、自然に新しい考えをもっていこうとするような星回り。

外山滋比古は『知的創造のヒント』の中で、出だしから知的刺激を感じた本に関しては、ぜんぶを読み切らないで、おもしろくなりそうなところで、つまり、スピードが出てきたところで本から離れるという付き合い方もあるとも述べていました。

確かに、本を読むにせよ、投票をするにせよ、私たちが何か活動をする際には必ず慣性がはたらいて、一度なにかを始めると途中でやめるのが面倒になったり惜しくなったりして、結果的にあまりに多くの影響を受けすぎることになってしまうことが多々あるように思います。ときどき先を読むのがなんだかこわく感じるような本があるというのも、途中できってそこから慣性を利用して自分の考えを浮かび上がらせることを、私たちが心のどこかで自分に期待し始めたからなのかも知れません。

さて、今あなたの目の前には、そう感じられるような本であったり、取り組みであったり、関係性であったりはあるでしょうか。あなたも、そっと離れるからこそ感じられる余韻に思いを馳せてみるべし。

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今週のてんびん座の運勢

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illustration by ニシイズミユカ

彫刻と超克

今週のてんびん座は、苦しさを避けるのではなく、すっとその最中に座っていくような星回り。

「行く秋ぞ命惜みて彫る仏」の作者・山口燕青は仏師であり、日本がまだ高度経済成長を果たす以前の昭和の時代に、昔の仏師と変わらぬ仕方で仏像を彫りあげるべく黙々とノミをふるっていました。掲句で秋から冬へとの移り変わっていく「行く秋」において寂寥感に感じつつ、当たり前のように「命惜しみて」と書ける作者には、どこか人間としての器量の大きさのようなものを感じます。

滑稽味とも取れますが、単なる滑稽に堕していない、ぬーっと肝の据わった禅僧のような風格があって、ここでは人間派とも呼ばれるべき作者が仏と向き合ってきた姿勢が、表面には現れずに大きな流れをなしていることがわかるはず。

やはり人間があってこその作品であり、苦しみということをなかったことにするのでも、器用に避けようとするのでもなく、作者はただポンとそのなかに座ってしまっているのだとも言えるかもしれません。あなたもまた、自分のささやかな人生において本当の意味で価値あるものとは何か、大切にすべきものとは何かということを改めて問うてみるといいでしょう。

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