今週のかに座の運勢
illustration by ニシイズミユカ
職業:コント師
今週のかに座は、コントなんだから、特別な意味なんかなくてもいいじゃないか、とうそぶいていくような星回り。
稲垣足穂の処女作にして代表作である『一千一秒物語』は、四辻を横切った影がふいに消えたとか、誰もいないはずの部屋にシガーの香りが微かに残っていたとか、よく見ると月が金貨だったとか、そういうちょっとした微妙な出来事や気配のみを描いた数行の短い文章を集めた作品なのですが、それを「オブジェクティブ・コント」と呼んだ人がいました。
オブジェクティブの反対語はサブジェクティブ(主観的)で、そういう個人的な感情が一切入っていない、というより個人的であることができない領域では、すべてがある種の「コント(寸劇)」になるという訳です。私たちは大げさな出来事のなかで、なにか人生に意味が与えられると考えがちですが、あんまりそうして意味を追い求めすぎると、人生というのはだんだん窮屈になっていきますし、人間もどこか不機嫌になっていくのではないでしょうか。
その点、「オブジェクティブ・コント」は人間を意味から解放し、どうしたって近くに寄り過ぎた目のやりどころを、すこし遠くへと戻してくれるのだとも言えるかも。あなたも、ひとつ寸劇をこしらえていくつもりで過ごしてみるといいでしょう。
今週のしし座の運勢
illustration by ニシイズミユカ
柿のように熟していく
今週のしし座は、精神がシーンと静まり返っていくような星回り。
「しみじみと日を吸ふ柿の静かかな」(前田普羅)では、雨にも風にも動かされない、よく晴れ渡った日のしたで、梢の先の柿が赤い色をして静かに丸い形を見せている。太陽は偏ることなく万物を照らしているが、その中でもこの梢の赤い柿は飽くことを知らないかのように、しみじみとその日の吸い取っているというのです。
当然この柿は、はじめは青かったものが日を経るにしたがって赤くなってきた訳ですが、静かな小春日和に柿が落ち着いて日光を吸い取っているように感ぜられたのは、おそくらその柿に対した時の作者の心それ自身が落ち着いて深くそのおもむきに吸引されたからでしょう。
つまり、柿がしみじみと日を吸うというのは、とりも直さず作者がしみじみと柿をながめているということであり、掲句ではほとんど作者が柿になってしまっているほどに深く立ち入っているのだと言えます。あなたもまた、そんな作者のごとくいったん自分を空っぽにしてみるといいでしょう。
今週のおとめ座の運勢
illustration by ニシイズミユカ
むすんでひらいて
今週のおとめ座は、「延長の自由」を謳歌していこうとするような星回り。
新宿御苑をぶらぶらと歩いてみると、葉を茂らせている樹木というのは、ただ目の前に見えているこんもりとした輪郭にとどまっている訳ではなく、目に見える以上にたいそう巨大な空間をあたりに占めていて、そこでエネルギーを発揮しているということが分かってきます。
同様に、私たち人間もまた皮膚の内側に閉じられた存在として考えない方がいいでしょう。体表はたんに目に見える輪郭に過ぎず、私たちの体にひそむエネルギーはいつもどこかにはみ出しており、その意味で幼児が自分の体がどこにもでも移動できるという幻想はむしろ幻想ではなく、むしろ「延長の自由」というリアルなのだと言えるかもしれません。
富永太郎はそのことを「私は透明な秋の薄暮の中に墜ちる」と表現していましたが、あなたもまた、いつも以上に自分自身を閉じた系としてではなく、開いた系として実感していきやすいはず。
今週のてんびん座の運勢
illustration by ニシイズミユカ
ふと思い出すものこそが人生の本質
今週のてんびん座は、だんだん原点にかえっていくような星回り。
「冬空に聖痕もなし唯蒼し」(中村草田男)という句の前書きには、「川端茅舎を偲ぶ」とあります。作者は毎年繰り返し「まことに天才の名に値するものと思う」とこの亡き友をしのんでは句を作っていますが、この句も失われたもののを大きさを詠っているのでしょう。
「聖痕」とあるのは、十字架のキリストの釘打たれた掌の痕を生まれながらにして持っていた聖パウロの掌の痕のことを指しているものと考えられますが、おそらく茅舎の姿を重ねているはず。そして、限りなく澄んだ冬空がガランと広がっているこの世には、二度と茅舎のような作家が生まれることはないのだという意味を込めているのかも知れません。
「唯蒼し」という結びには宇宙的孤独の響きがありますが、しかし考えてみれば作者は亡き友の存在を通してそれを年々深めていったのだとも言えます。あなたもまた、だれかなにかを通じて自身の深めるべき境地を思い定めていきたいところです。