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[1/17〜1/23の運勢]1月4週目の運勢はどうなる?SUGARさんが贈る12星座占いをチェック!

今週のかに座の運勢

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illustration by ニシイズミユカ

語れよ語れ

今週のかに座は、どこにたどり着くのかも知れぬまま、話すのがやめられなくなるような星回り。

死後、閻魔の前に立たされた人間のするべきことはただ1つ、最後の告白である。みずからに必要な決定的な何かを取り戻そうとでもするかのように、そこではみな、藁にもすがるような思いで、今まで言葉にしたことさえなかったような、自身の心の奥の奥のもっとも奥底まで言葉にしようとするのです。

では、そんな閻魔とは誰なのか。そもそもインドのヴェーダ神話に由来する閻魔(ヤマ)は、最初の人間であり、それゆえ最初の死者となり、その後に続く者たちのために行くべき道と場所を見つけていったことで、死者たちの王となったと云われています。つまり、閻魔とは必ずしも地獄の“審判者”である訳ではなく、他界へと渡っていく人間の魂の先導役であり、正直に向きあえれば、これ以上ないほどの良きガイドとなってくれる存在でもありました。

とはいえ、自分の身に起きたことを語りつくすということは、想像以上に難しいことです。本当の告白とは、そうした頑なに口をつぐんでいた沈黙を破った先に、やっと辿り着くことができるもの。あなたもまた、これまでついぞ破られることのなかったあなたの中の沈黙が不意に破られていくことになるかも知れません。

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今週のしし座の運勢

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illustration by ニシイズミユカ

魔法の文法

今週のしし座は、想像のなかで初めて垣間見える真実と相対していくような星回り。

「雪女郎鶯張りに音もなく」(山田佳乃)の舞台は、大雪の降り積もった屋敷か寺院か。忍びの者でさえ踏めば鳴るという鶯張りの廊下を、音もなくやってくる者の気配だけがある。もちろん実際に見えるのは灯りが照らすわずかな空間の先に広がる闇の奥行きだけですが、それだけに、かえってその気配が濃密に伝わってくるのです。

掲句は雪女郎(雪女)という存在が、雪に閉ざされ過度に張り詰めた人の心が作り出したものかを実感させてくれる一句と言えますが、しかしこれは裏を返せば、何かをまざまざと想像できるということは、その何かが確かに存在するということを示した一句とも言えるのではないでしょうか。

雪女に入れ込んで、みずから命を落としていった男たちの状態を「狂気」と呼ぶ人がいる一方で、「愛」と呼ぶ者だっているように、誰かの心に刻まれた「感動」が「真実」として伝わることだってあるはず。伝承や文学や歌は、しばしば当時は認められにくかった真実の“隠れ蓑”となりつつも、心当たりのある人にはその中身を積極的に開示するのです。あなたもまた、そうした隠れ蓑のしたの“素顔”を喝破していきたいところ。

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今週のおとめ座の運勢

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illustration by ニシイズミユカ

淀みと流れ

今週のおとめ座は、目に見えない怯えや不安を、軽やかに乗り越えていこうとするような星回り。

社会学者の岸政彦さんが、孤独死をテーマにしたある聞き取り調査で知ったという、女性たちがつながりをつくっていくのに、“玄関先の植木”が一役買っているという興味深い話について書いていました。

それは鉢植えを誰かにあげて、お返しにまた鉢植えをもらうとか、玄関先で植木に水をやっていたら声をかけるとか、難しい花の育て方や我が家の一工夫について教え合うといった、ちょっとした会話のきっかけとなって、そこから話が脱線しつつもひとしきり盛り上がるのだとか。逆に、高齢の男性ほど、他人とのつながり作りや、仕事に無関係な会話をすることが苦手で、孤独死も多くなるのだそう。

人に話しかけるということは、きっとかすかな不安や恐怖を幾つも越えていかなければうまくいったと感じることのできない、隠れた難事業なのだ。そして、そんな時のコミュニケーションツールとして最適なもののひとつが植木鉢であり、その最大の特徴は“軽やかに”共に生きていける点にあるのでは。あなたもまた、誰かと“共に生きていく”ということに付きまとう重たさを、幾らか払拭していくことができるはず。

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今週のてんびん座の運勢

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illustration by ニシイズミユカ

しかと目を見開く

今週のてんびん座は、いつか見るだろう、走馬燈のシュミレーションをしていくような星回り。

「冬眠すわれら千の眼球売り払い」(中谷寛章)は、31歳の冬に病死した作者の遺作。「眼球」は「め」と読ませる。まなざしを外すくらいではダメなのだ。作者にとって自身が迎えようとしている“最期”とは、物質としての目玉まで綺麗さっぱり売り払って、もうこれで自分は二度と何かを見ることも、目覚めることもないのだと、覚悟を決めた「冬眠」だったのでしょう。

そうすると、ここでいう「われら」とは、過去に「われ」がその思いや希望を共有したと信じる幾らかの人びと、そして未来にその後に続くであろう未知の人びとの総体であるはず。とはいえ、それも煎じ詰めればただ独りの「われ」であり、どこまで行っても「われ」のなかの「われら」に他ならないのです。

人間は決してただ一人だけで生きている訳ではないけれど、死んでいくときは必ず自分ひとりで死んでいく。生まれてから死ぬまでに関わった人とのつながりや、そこで縦横に紡がれたストーリーや、浮かび上がった図柄や模様とともに。あなたもまた、「もうこれで死んでも構わない」と言えるためには、一体自分はどんなストーリーや図柄、模様を両のまなこに収めたいのか、思いを巡らせてみるといいでしょう。

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