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[11/9〜11/15の運勢]11月2週目の運勢はどうなる?SUGARさんが贈る12星座占いをチェック!

占い

isutaでは今週も、SUGARさんが贈る週間占いを配信。

今週のかに座の運勢

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illustration by ニシイズミユカ

空気と光を通していく

今週のかに座は、キラキラとした光を自分のなかに浸透させていくような星回り。

「子らの踏む音に光や霜柱」(日下節子)は、読むだけで脳裏に映像が浮かぶかのような一句。あなたが最初に感じたのはザクザクという音でしょうか、それとも子どもたちが道ばたの霜柱を踏みつけにしている光景でしょうか。

もちろん、人間の脳は複雑ですから、聴覚と視覚がはっきり分かれている訳ではありません。占星術的には聴覚はかに座と、視覚はおとめ座と対応しており、この2つの星座はもっとも連動しやすい2つ離れた関係性(セクスタイル)にあります。共感覚体験者のエピソードなどでも特定の音が特定の色と対応して見えるなど、その結びつきは頻繁に報告されているのです。

掲句の場合は言語感覚(ふたご座と対応)とも結びついていますから、3つの感覚が互いに結びついていくなかで、子どもたちの歓声だったり、雲間からのぞく日の光や霜柱などの情景などが、透明な萌芽のように心のなかに育ってくるのが感じられてくるはず。あなたも複数の感覚を丁寧に結びつけていくことを通して、自分なりに感受性を生き返らせていくことがテーマとなっていきそうです。

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今週のしし座の運勢

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illustration by ニシイズミユカ

自分の世界を作りなおす

今週のしし座は、改めて大いなる息吹をからだに取り入れていこうとするような星回り。

宗教における経典では、しばしば同じ内容のことを別の言葉で繰り返し、その意味を強調する手法が用いられます。旧約聖書の『ヨブ記』の一節「神のルアーハ(息)がわたしを造り 全能者のネシャマー(霊)がわたしに命を与えたのだ」(ヨブ記・33・1)でもその手法が用いられ、“神からくるその生命原理が創造した人間に命を与えるということ”を2行にわけて述べられています。

しかし、同じヨブ記の「神のネシャマーがまだわたしの鼻にあり、わたしのルーアハがまだ残っているかぎり」(27・3)といった表現などを見ると、厳密にはネシャマーの方は呼気(吐く息)であるのに対して、ルーアハはその息が身体の中に入った後の状態を指しているように思えますし、ルーアハがしばしば「霊」とも訳されるのはそうした理由からなのでしょう。

しかし人間が生き生きとした存在であるためには、からだの内部にみずからを超えた大いなる存在の息吹からなる霊を内包して初めてそれが可能になるのであって、いくら健康的な食事と睡眠をとってポジティブシンキングを心がけたとしても、それだけでは決定的な何かが足りないのです。あなたもまた改めて日常的な尺度をこえた大きなスケール感を体感に落とし込んでいくことがテーマとなっていくでしょう。

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今週のおとめ座の運勢

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illustration by ニシイズミユカ

オナラ行進曲

今週のおとめ座は、しょうもない現実に伴う哀感を受け入れていくような星回り。

「土佐脱藩後いくつめの焼芋ぞ」(高山れおな)という句は、坂本竜馬のことを詠んでいるのでしょう。彼が脱藩したのは28歳のことで、そこから近江屋で暗殺されるまでの活躍は司馬遼太郎の『竜馬がゆく』の影響もあり、幕末維新を先導した偉大な革命家として国民的な人気を誇っています。

しかし、掲句のキモはそんな竜馬にのんきに焼芋を食わせていること。おそらく、作者の意図は安直に彼を神話化しがちなファンへの皮肉にあるのではないでしょうか。

どんな英雄にだって光もあれば影もあり、8日にわたる決死の脱藩行もすれば、その間もそれ以後も、焼芋をほおばってオナラだってする訳で、お腹を壊せば下痢もするし、あわよくば便秘で悩んだことだってあったかもしれない。むしろ、そういう哀感があってこその人間ではないか、と。あなたもまた、ちょうどいい哀感を放てるくらいに、建て前や完璧主義をガス抜きしていくといいでしょう。焼芋だけに。

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今週のてんびん座の運勢

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illustration by ニシイズミユカ

でくのぼうごっこ

今週のてんびん座は、不完全さを真摯に志向していこうとするような星回り。

人間だと思って話しかけたら、郵便ポストだった。そんな話をどこかで実際に聞いたことあったように思いますが、何らかの無機物を、生命をもつ有機体、さらに意識をもつ人間と見間違える話としては、宮沢賢治の『月夜の電信柱』といった話もありました。

改めて読んでいると、そうした見間違えを可能にしている条件は単に「大きさ」というより、「たたずみ方」なのではないでしょうか。びっこを引いていたり、ふらふら頭をふったり、よろよろ倒れそうになったり、口をまげていたり…。予定調和的すぎる光景や、それを構成しているのが予測可能な動きばかりであると、私たちは逆に不自然さを感じてしまうように出来ているのだと思います。

つまり、たたずみ方に何らかの歪みのようなものがあって、かつそこに意図やわざとらしさが持ち込まれないとき、それが無機物であったとしても、この世でただひとつ、本当に予測できないものになって、見間違えが起きるのかもしれません。あなたもまた、どうしたって出てしまう癖や偏りをならそうとするのではなく、むしろそれを受け入れて活かしていくことがテーマとなっていきそうです。

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