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[9/20〜9/26の運勢]9月4週目の運勢はどうなる?SUGARさんが贈る12星座占いをチェック!

占い

今週のかに座の運勢

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illustration by ニシイズミユカ

レッツ連帯活動

今週のかに座は、微妙な差異を活かしあう連帯性に基づいていこうとするような星回り。

多くの心理学者が、人間的個我の有機的統一体を象徴するものとして、樹木を使ってきました。そして西洋的とりわけアメリカ人においては、「個人」というのは、もっぱら背が固くて、真っ直ぐで、ひときわ目立ってそびえている、というものであるのに対して、日本の伝統的な庭園では、むしろ横に広がって延びていたり、枯れ木も組みこまれていたりなど、木々はそれぞれ隣り合った木々と調和ある均衡を保つものとして存在しています。

つまり、日本ではどうやら個というものは、緊密な集合関係のなかでの、質的差異を意味するものであって、独立して離れているとか、際立っているということではないんですね。

松の小枝の松葉のように、一見すると互いに非常に相似ているという場合に限り、日本では、そのひとつひとつがほんのかすかに、繊細に異なっているということで真の個別性が成り立っているのだと考えられているのであって、それは西洋において単一性や孤立性のあらわれとして見なされる個別性ということとは、かなり違っているのかも知れません。あなたもまた、そうした日本なりの個性の発揮の仕方ということに立ち戻ってみるといいでしょう。

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今週のしし座の運勢

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illustration by ニシイズミユカ

特別な交換の実行

今週のしし座は、騙し絵のごとく、視点の切り替えとともに異なる景色がみえてくるような星回り。

「闇の夜は吉原ばかり月夜かな」(宝井其角)は、江戸時代の遊郭であった吉原を題材とした、いかにも遊蕩児だった作者らしい一句。自然に読もうとすれば、真夜中の江戸市中は月もなく真っ暗な闇夜であるが、ここ吉原ばかりは煌々と灯りが灯って、まつで月夜のようであるという賑やかな意味に取れますが、どうも掲句はそれだけでは終わりません。

「闇の夜は/吉原ばかり月夜かな」で切れば先の通りなのですが、これを「闇の夜は吉原ばかり/月夜かな」で切ると、その意味するところががらりと変わってくる。月が煌々とその光がみなに等しく注いで、やすらぎをもたらすなかで、吉原ばかりがその恵みを受け取ることができずに闇に沈んでいる。

これは、江戸時代の吉原の遊女の平均寿命が二十歳程度だったことや、当時の記録などから、非常に粗末な食事しか与えられていなかったことなどを考えると想像がつくのではないでしょうか。吉原にさかんに出入りしていた作者は、ただ遊んでいただけでなく、そういう事情にも自然と通じていたはず。あなたも、まずは一面的にではなく多角的に物事を見通していくことが課題となっていくでしょう。

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今週のおとめ座の運勢

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illustration by ニシイズミユカ

後ろ向きのジャンプ

今週のおとめ座は、赤ん坊のような、からっぽの全開状態へと近づいていくような星回り。

神秘体験が神秘たりえるのは、一方でそれを「神秘」として排除してしまえる強固で理性的な現実世界があるからですが、現代ではそうした「現実社会」そのものがゆらいでいた上に、一連のコロナ禍でますますその輪郭が曖昧になるどころか、すでに破れが生じているように思います。

いずれにせよ、時代は「現実」がさらに大きくゆらぐ方向に向かっていくでしょう。そこではもはや「神秘体験」は奇跡でも不思議でもなくなり、むしろ「現実」が現実であることの方が奇跡的であると感じるように、感性や身体性もまた変化していくのではないでしょうか。

時代の変化というのは、いつだって言葉が追いついてくる以前の、身体的反応のレベルで起こっているのであって、少なくとも「時代を生き抜く知恵」とか「サバイバル術」といったものも、そこから組み立て直していくべき。あなたもまた、大脳的な知の領域でこねくり回してしまうのではなく、身体性のレベルで時代のゆらぎに適応していくことがテーマとなっていくでしょう。

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今週のてんびん座の運勢

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illustration by ニシイズミユカ

苦しみにひかりを当てる

今週のてんびん座は、心の奥の方がすーっと透き通っていくような星回り。

「秋彼岸濯(ゆす)ぎ慣れたる川瀬あり」(友岡子郷)という句に使われている「彼岸」とは、サンスクリット語の「波羅密多(完全な修得)」から来た言葉。すなわち、迷いと煩悩の世界である此岸から離れた向こう側の世界(悟りの世界)である彼岸へと到達できるという意味です。

流れがゆるやかな川瀬を見て「濯ぎ慣れたる」とは、もはや現代人には想像もつかない連想ですが、洗濯機が登場する以前は川で洗濯をしていたのであり、掲句もそれが習慣だった頃を思い出して詠まれたもの。

秋も深まってくると、手を浸す水の感触もひえびえとしてくる。親しさや懐かしさとともに、住み慣れた地で過ごした月日や記憶のなかの情景が、不意に鮮やかに蘇ってきたのでしょう。かつてうごめいていた情念は薄らぎ、過去の記憶にこれまでとは別な方向から明るいひかりが当たったのかも知れません。あなたもまた、水澄みそめる秋の水のように、意識のひかりを遠くへと届かせていきたいところ。

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