今週のかに座の運勢
illustration by ニシイズミユカ
問い返す勇気
今週のかに座は、みずからのアトモスフィアを溶かしていくような星回り。
春のうららかな日に、たったりひとり槍投げの練習をしている。「春ひとり槍投げて槍に歩み寄る」(能村登四郎)はただそれだけのことを詠んだ句ですが、槍を投げては拾い、投げては拾うそのうしろ姿は、どこか胸を打つものがあります。
それにしても、数あるスポーツの中でもどうしてよりによって「槍投げ」などという孤独でストイックな競技を選んだのでしょうか。おそらく、本人もどこかでそれを不思議に思っているのでしょう。その証拠に「槍投げて槍に」という字余りにやり切れない倦怠感が滲み出ている。
ただ、そうした倦怠感も含めた作中主体全体を「春」という季節が包み込んでいるようにも感じられます。あなたもまた、みずからの遣る瀬無さをおおらかに包んでくれる何かに気が付いていくことでしょう。
今週のしし座の運勢
illustration by ニシイズミユカ
頭ではなく手先で物語ること
今週のしし座は、すっかり分離してしまっていた頭を手元とを繋げていくべし。
自然を扱うとき、「エコ」とか「環境」などと“概念”で言ってしまうようになったのは一体いつの頃からなのか。少なくともレオナルド・ダ・ヴィンチやパウル・クレー、狩野派の絵師たちであれば、同じことを精緻な観察とそれを実現するだけの“技術”=手技でもって目の前に具体的に示してみせたはず。
近代人は「自然」と言うと、「ネイチャー」だとか「母なるもの」だとか、そこに何かしらの“本質”があるものとすっかり思い込んでしまう訳ですが、自然を扱うだけの技術を持っていた人たちからすれば、自然とは例えばフラクタル図形のような破片の集積でできていて、いわばデジタルだった訳です(デジタルの語源は「指」を意味するラテン語)。
流動している織物のような自然を同じく異質の織物としての感覚器で触れた境界面で作り出される造形のひとつひとつこそが自然であって、それは「自然」という翻訳語が明治期に入ってくる前は山川草木という固体を言い表していたこととも繋がっているのでしょう。あなたも“指”や“手”から離れたところで何かを語ろうとするのではなく、あくまでそれを運用する“技術”の中で語っていくべし。
今週のおとめ座の運勢
illustration by ニシイズミユカ
童心にかえる
今週のおとめ座は、自分のなかに眠っていた皮膚感覚を呼び覚ましていくような星回り。
「幹にちよと花簪のやうな花」(高浜虚子)は、作者が亡くなる前の最晩年、85歳の春の作。花は桜。低い胴の部分から直接、小さな花柄がでて、小さなピンで留めるくらいの花簪(はなかんざし)のような花が咲いていたのでしょう。ここで注目すべきは、桜と作者とのあいだの距離の近さ。
掲句の「花かんざし」は七五三など小さな女の子が身につけるそれを思わせますが、花を見て人間の身体に直接身に着けるものを連想するというこの何気ないプロセスは、自然を対象化してあくまで“景色”として遠くに眺めているような意識からは決して出てきません。
その意味で、掲句は木肌を人間の肌と地続きに感じ取るような、ある種の皮膚感覚が意識の深いところから露出してきた句なのだとも言えるかもしれません。あなたも対象を遠くにやってそれを他人事のように眺めるのではなく、ごく身近な自分事のように感じていくことがテーマとなっていきそうです。
今週のてんびん座の運勢
illustration by ニシイズミユカ
黙ってそこに佇むべし
今週のてんびん座は、出会いの場所としての<声>を体験していくような星回り。
お通夜の席で死んだ人の悪口を言ってはいけない、とよく言われますが、これは五感のうち聴覚だけは最後まで残るから、なのだそう。だから、臨終の床にあるときには、なおのこと声をかけてやることが大切になり、たとえ意識は失われようと、声の波長だけは伝わるということもあるのかも知れません。
日常においても、他者の出す音や声を聞くことで、私たちは孤独を癒している訳ですが、声というものは聞こうとしてはじめて聞こえてくるものでもあるのではないでしょうか。昔、ユダヤの詩人は「人の口の言葉は深い水のようだ、知恵の泉は、わいて流れる川である。」(箴言18章4)と歌いました。
砂漠地帯に年間を通して流れる川はないようですが、雨季の一時的な豪雨のときのみに水が流れる「涸れ川(ワディ)」というものがあり、詩人は言葉はそんな涸れ川の下にある水のようなものだと言っているのです。心があるならその水は、湧き出て流れる川となる。あなたも、そんな風にひとつの川となっていくのを実感していくことができるはず。