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[6/14〜6/20の運勢]6月3週目の運勢はどうなる?SUGARさんが贈る12星座占いをチェック!

占い

今週のかに座の運勢

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illustration by ニシイズミユカ

建て前を本音が裏切る

今週のかに座は、ありえない意味によって、内なる欲求が暗示されていくような星回り。

特に難しい言葉が使われている訳ではなくても、言葉の組み合わせとして不自然だったり、一読してよく意味が分からないということがあります。島尾敏雄の「夢の中の日常」の一節には、次のように記されています。

「私は胃の底に核のようなものが頑強に密着しているのを右手に感じた。それでそれを一所懸命にに引っぱった。すると何とした事だ。その核を頂点にして、私の肉体がずるずると引上げられて来たのだ。私はもう、やけくそで引っぱり続けた。そしてその揚句に私は足袋を裏返しにするように、私自身の身体が裏返しになってしまったことを感じた。頭のかゆさも腹痛もなくなっていた。ただ私の外観はいかのようにのっぺり、透き徹って見えた。」

ここに書かれているようなことは、実際にはありえないし、また、いつかあり得るものでもないために、読んだ側も最初は不明晰な印象を受けます。ただ、次第にこうした事実としてありえない意味が、それを逃れたいという欲求の暗喩になっていることが分かってくるはず。あなたもまた、なんらかの感覚の自己表出に裏打ちされたリアリティを新たに獲得していくことがテーマとなっていくでしょう。

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今週のしし座の運勢

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illustration by ニシイズミユカ

真夜中に道はひらける

今週のしし座は、これでよし、と心から思える道をいくこと。

「鮎くれてよらで過行夜半の門」(与謝蕪村)という句で詠まれているのは、夏の夜遅く、門をたたいて友が訪ねてきて、たくさん釣ったからと言って鮎を分けてくれるという情景。しばらく寄っていけばと誘ったが、そのまま過ぎ行くままに帰っていった。

これは思いがけない贈り物に対しての喜びを表しているというより、どこか恬淡とした友情の在り様を強調しているんですね。さっときて、トントントンと戸を叩いて、鮎くれて、闇に消えていく。ちょうど夜中に夢を見るかのように、私たちの人生にも色々な出来事が起きてくるけれども、それもまた闇に消えていく。

ここには交わされた言葉の裏に何の取引も、隠された意図もありません。ただ、自分の釣った鮎を友に分けてあげたいという思いを実現したに過ぎず、そこでお返しを期待している訳ではない。この世のどんな現実や常識にも規定されない、そんな友情こそが何よりの宝物じゃないか、と。あなたも、自分のたなごころの中に既に握られていたものの価値に改めて気付いていくことができるかも知れません。

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今週のおとめ座の運勢

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illustration by ニシイズミユカ

今まで生きてきた中で一番丁寧な一歩を踏み出してみる

今週のおとめ座は、時空を超えて何かがオーバーラップしていくような星回り。

民俗学者の折口信夫はエッセイ「山越しの弥陀増の画因」の中で、山越しの阿弥陀仏を描いた数々の来迎図について語りながら、「私の物語なども、謂わば、一つの山越しの弥陀をめぐる小説、といってもよい作物なのである」と言います。

この「私の物語」とは、折口が生前唯一完成させることのできた小説『死者の書』のことで、中将姫という高貴な少女のはじめての恋と、若くして非業の死を遂げた皇子の生涯最後の恋とが時空をこえて出会い、切なくすれ違っていくラブロマンス。そして、先のエッセイのなかで、この小説を書いたことについて、「そうすることが亦(また)、何とも知れぬかの昔の人の夢を私に見せた古い故人の為の罪障消滅の営みにもあたり、供養ともなるという様な気がしていたのである。」と述べているのです。

この「古い故人」が誰かは折口は自分の口からは明かしませんでしたが、その後には日本人の積み重ねてきた意識や象徴が重要なのであって、私個人のことではない、「私の心の上の重ね写真は、大した問題にするがものはない」のだと続けています。あなたもまた、自分の過去や記憶の上を通り越して現れ出てくる何か重要なモチーフや象徴に感応していくことがあるかも知れません。

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今週のてんびん座の運勢

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illustration by ニシイズミユカ

早くわからない方がいい

今週のてんびん座は、生産的ではないが大切な時間を過ごしていくような星回り。

「ががんぼや忘れ物めく父の杖」(屋内修一)は、誰も住む人のいなくなった実家に、ポツンと「父の杖」が残されているのを見て、思わず詠んだ一句。作者が故郷の松山で父母と暮らしたのは18歳までだったのだと言います。父は公務員と定年退職後、老後の楽しみとして俳句をたしなみ、母もそれを真似て句を作ったのだとか。

長男であるにも関わらず、離れて暮らしたせめてもの償いにと、二人の句帳を整理して、遺句集も編んだりもしたものの、まだ引っかかるものがあったのでしょう。「ががんぼ」の脚はすぐ折れる。父もまた、脚を残してどこか遠くに飛んでいったのか、唐突に足をもがれるように死へと引き込まれたのか。

残された者として、あれやこれやと考える時間は生産的かと言われれば、まったくそうではないけれど、人としての大切なものを貫いていくには、どうしたってそういう時間が必要なのでは。あなたも、不意にこみあげてくるものを流すことなく大切にしていきたいところです。

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